中学生、高校生になるにつれて現実というものを少しずつ理解し、社会へ巣立つ準備を進めていきます。ただ、あくまでもそれは親から自立するといった事を前提とするもので、親の面倒を見ることは想定に入れていないものです。私もそうでした。まさか社会に出る前から親の介護が必要となるとは・・・。
テストの点数を友達に言うな事件
中学に上がると、小学校では無かった中間テスト期末テストというイベントが発生する。テスト結果が出た翌日、家が近くて登校一緒に通っていたT君とテスト結果について話すことが習慣になっていたが、ある日突然母から「友達にテスト結果を自慢しないで」との命令が下る。母曰くT君の母親から私のテストの点数がT君よりも高い事について嫌味を言われたとの事だ。自慢してない旨を伝えると、「テストの点数を他の人に言うな」との指令に代わった。勉強しろと言っておきながらこういう所でガンガン勉強のモチベーションを削っていくのが計画性のないうちの母親らしいエピソードだなと思う。
学区2番手の普通科高校に進学
私が高校に進学する頃は学区というのが設定されており、基本的には学区内の高校を受験するのが通例であった。私も学区内で1番の高校に行くほどのモチベーションが得られず、学区で2番手の普通科高校に行くことにした。静岡県でも浜松市とか静岡市の比較的都会の高校であれば2番手も比較的競争力があるが、田舎の2番手の普通科はかなり競争力が低い。私が進学した先は、2番手と言えば聞こえは良いが、学年の1/3はFランに行くレベルの高校だった。父も母もそれなりに喜んでいた。まぁ、所詮高卒と中卒なのでそんな程度の理解度である。まぁ、でもここで出来た私の友人は皆面白いやつだったし、ここに進学したことは公開していない。それに、そのうちの一人は畑は違えど今では資産運用で財を成した仲間(私は株式、友人は不動産)で今も繋がっている。
大学へ進学
これまでの人生で北海道に行った事が無かったので、大学は北海道に行くことにした。北海道の大学生活は本当に楽しかった。人生でも一番楽しかった時だったと思う。お金は大してなかったけど時間はたくさんあったし、講義が終わればいろんなところに遊びに行った。そして親の呪縛から逃れられた人生で唯一の期間だった。
他大学の大学院へ進学
今になってみればわざわざ苦労してまで他大学の大学院を受験する理由は無かったような気がする。ただ、当時は自分の大学では難しいと妄信していたので頑張って他大学の大学院を受験したが、希望の大学院には合格したものの、希望の研究室に行くことはできなかった。
教授との確執で旭川へ
大学院で配属された研究室の教授は研究者になるもの以外は来てほしくないという人だった。私は研究者になる気はさらさら無かったので、全く教授とは話が合わなかった。教授との確執の末私は旭川医大の研究室へ共同研究者という扱いで飛ばされることとなったが、ここで色々な人と出会い、色々な人に助けてもらった。旭川に行って本当に良かったと思う。
父親の死
父の死は突然だった。まだ寒い3月のある日、私が旭川で研究をしているときに妹から連絡があった。「定年間際の父が亡くなった」と。私は急遽飛行機と新幹線で袋井まで帰った。どうやら父は酒に酔って仕事場の近くの用水路で用を足している時に転倒して用水路で溺水したとの事。当時父は出勤前に家で飲んで、仕事場の休憩室で休んでから勤務開始しているのが日課だったのだそう。事故当日の朝に勤務時間になっても仕事場に現れなかったことを不審に思った会社の方が探してくれたそうだ。まぁ、酔っぱらった父親を仕事場に送る母もアホやし、勤務前に酒を飲む父親はもっとアホやな、と今になってみると思う。ちなみにこの人騒がせな死に方をする特性は、母親にも引き継がれる。
母の病状悪化と奇行
母は元来被害妄想が強い人であったが、父が死んでから、その傾向はますます強くなった。そして春の帰省時にはとてもこのまま一人にはしておけない状態にまでなっていた。そのため、やむなく当時私が住んでいた旭川に母を一緒に連れていく事になった。
だが、旭川に帰る日の前日事件は起こった。その日私は彼女(現在の妻)とデートをして、袋井の家に戻ると鍵が締まっていた。そして、家の中から鳴き声の大きな声が聞こえる・・・「お父さんなんで私を連れて行ってくれなかったのよ!」声の主は母だ。窓から様子を見ていると酒瓶を持って喚き散らしている。私が窓をたたいて鍵を開けるよう言うも母の耳には全く届かない。自殺未遂も父の死後あったことから危険と判断されたため、唯一鍵の開いていたトイレの窓から侵入し、母から酒を取り上げる。そしてなだめてある程度興奮が冷めた後に、風呂に入れ寝かせた。次の日、母が起きた後ひどい状態だったのでフライトの日を変更することを提案するも母は予定通りに旭川に行くと言って聞かないため急遽荷物をまとめて空港へ連れていく事となり、何とか旭川まで連れて行った。
ワンルームマンションに母親と2人で住む
旭川に帰り、母と新たな生活をするためにアパートを借りようとするも、連帯保証人が見つからず家を借りられない事が分かる。彼女の親を保証人に立てようとするも、保証会社が、慣習から親族でないと連帯保証人は認められないとの事だった。
親戚付き合いが皆無だった我が家ではこの難題のクリアは難しい。やむなく、契約中のワンルームのマンションに今度は母と二人で住み続けることとなった。多分管理人さんに母と2人住んでいることはバレていたと思う。追い出されなくてホント良かった。
20歳そこらの男が個室も無く母親と過ごさねばならないのは精神衛生上良くないのは言うまでもないが、当時の状況下では仕方がなかった。まぁ、これ以降人生で私の部屋ができることは2度と無いのだけれど。
マンションの警報事件
当時旭川で暮らしていたマンションはオートロックだったのだが、そのためか鍵の複製が不可能であった。そして1人暮らし専用の部屋のため合鍵も無かった。そのため、家の鍵は日中多くを過ごす母に渡していた。そして、私が帰ったときはインターホンで連絡し開錠してエントランスの鍵を開けてもらう形で生活していた。
そしてついに事件は起こる。ある日バイト先の店長に飲み会に誘われ帰りが遅くなって午前様となり帰宅。いつものようにインターホン越しに母へ帰宅したことを連絡。帰ったのでいつものようにエントランスの鍵を開けてほしい旨を伝えた。しかし、一向にエントランスの扉が開く様子はない。不安になりつつも、再度インターホンを鳴らしてエントランスのカギを開けてほしい旨を母に伝える。すると、突然警報が鳴りだした。・・・嫌な予感がした。
その後まもなくエントランスの鍵が開錠した。当時6階だったが、階段を駆け上がり自分の部屋まで行き状況を確認。嫌な予感は的中し、母がエントランスの開錠では無く、火事などの時に鳴らす警報ボタンを押していたことが分かる。その後管理人さんが部屋に飛んできたので一部始終について説明し警報を止めてもらった。午前1時の出来事である。酔いは完全に醒めた。