
子どもの頃、私は「うちの家は、他の家に比べてちょっと貧しいくらいなんだろうな」と思っていました。しかし大人になった今、当時の生活を冷静に振り返ってみると、周りと比べても「結構な貧困レベル」だったのだと気づかされます。
ただ、我が家の経済状況が本当に困窮していたかというと、実はそうでもなかった気がするのです。おそらく親が「普通のまともな生活」を贅沢品だと勘違いしているタイプだったのでしょう。
そんな我が家の、おかしな日常を振り返ります。
年に1回の贅沢。今思えば普通だった「町中華」
私が家庭を持ってからは、ショッピングモールのフードコートも含め、月に1〜2回は家族で外食をしています。しかし、子どもの頃の我が家にとって、外食は「本当に特別な時」だけの超ビッグイベントでした。
家族総出で外食に行くのは、年に1回あるかないか。行く先は、決まって近所の町中華でした。 当時は外食自体が超レアだったため、その店で食べるチャーハンやラーメンが本当に美味しくて、最高に楽しかった思い出として胸に刻まれていました。
大人になってから、「あの時の感動をもう一度味わいたい」と、わざわざその店を再訪してみたことがあります。しかし、出てきたのはどこにでもある普通の町中華の味で、さしたる感動はありませんでした。
私の舌が肥えたのか、それとも代替わりして味が落ちたのかは分かりません。ただ、子どもの頃の私がどれほど飢えていたのかを思い知り、少し切なくなりました。
おかずと米が1対1。過食が生んだ「中2で75kg」の肥満児
我が家の食事は、基本的に「ごはんと主菜(または汁物)」の2品だけ。それ以外のおかずはありません。 家庭科の授業や学校給食で、バランスの良い「主菜・副菜」の存在はもちろん知っていましたが、家では「白米とおかずが1対1」で出るのが普通だと思っていました。
夕食が「白米とおから」だけなのは日常茶飯事。ひどい時は「具材がジャガイモしか入っていないお好み焼き(おかず)」と白米、という日もありました。母の料理に対する思想設計は、シンプルに「とにかく腹さえ膨れればいい」というものだったのだと思います。
ただ、母は食事の「量」に関しては異常な執着を持っていました。 どんぶり一杯の米に、どんぶり一杯のおかず。常にそんなボリュームで提供され、おまけに少しでも残すと烈火のごとく怒り出すので始末が負えません。
母の偏った愛情(?)のせいで、少年時代の私はずっと肥満児でした。中学2年生の時には、すでに体重が75kgを超えていたほどです。 幸い、クラスでは比較的人気者の立ち位置にいたため、いじめに発展することはありませんでしたが、仲の良くない奴からは陰で「デブ」呼ばわりされていた記憶があります。
学生生活のヒエラルキーにおいて、ビジュアルは極めて重要です。もし私のキャラクターが違っていたら、あの体型のせいで格好のいじめの標的になっていたのではないかと、今思うとゾッとします。
アル中の父親、原付で自爆して免許取り消し
父親は酒が好きでした。それも、完全に度を越えたアルコール依存症の域です。 休みの日には昼から自宅で飲んだくれていたし、仕事帰りも当然のように外で浴びるほど飲んで帰ってきました。
そんな父親ですから、いつかこうなるのは当然の結末でした。むしろ、他人の命を巻き込む前に自爆してくれて本当に良かったと思っています。
私が小学校に上がったばかりの頃のこと。父はビールで酩酊状態のまま原付バイクを運転し、単独事故を起こしました。結果は一発で免停、そのまま免許取り消しです。 激しく転倒して肩からアスファルトに突っ込んだらしく、肩の擦り傷がかなり広範囲でグロテスクに抉れていたのを覚えています。
後にアルコールは父の直接的な死因にも密接に関係してくるのですが、この頃からすでに、その素因は十分に仕上がっていたのです。
そんな父親が、まだ生きていた頃「定年退職したら、もう一度運転免許を取り直したいな」とよく口にしていました。今でもたまに、その虚しい言葉を思い出します。
休日の連れて行き先は、いつも「競艇場」
そんなアル中の父親が、休日に連れて行ってくれる場所はいつも「競艇場」でした。 父親がギャンブルに興じている間、私は競艇場内にある子ども用の遊びコーナーで、トランポリンなどをしながら一日中過ごすのです。
子どもながらに、競艇場の食堂で食べるご飯は美味しかったし、遊び場はいつも空いていたので遊具を独り占めできて楽しかった記憶があります。 当時は「遊びに連れて行ってくれるお父さん、ありがとう」と純粋に感謝していましたが、親になった今なら声を大にして言えます。
「たまにはもっと、まともな児童公園や遊園地に連れて行ってやれよ」と。
花火の開催権は、巨人の勝敗に握られていた
夏休み、父親が早く帰ってきて、なおかつ「機嫌が良い日」だけは、夜に庭で手持ち花火をさせてもらえることがありました。 花火が始まるのは、決まってテレビのプロ野球中継が終わった後。
当時、大の巨人ファンだった父親は、巨人が試合に負けると機嫌を激しく損ね、花火を中止にしました。そのため、私は夏になると「お願いだから巨人が勝ってくれ!」とテレビの前で必死に祈る子どもになっていました。
父親は若い頃に住んでいた大阪が大好きだと公言していたのだから、「そこは阪神ファンになっておけよ。そしたら勝敗に一喜一憂せずに済んだのに」と、今では思います。
「連絡されても迷惑だ」39℃の発熱で突き放した父親
小学3年生の時、風邪をひいて39℃の高熱を出しました。 学校側が親に迎えに来てもらうため、私に父親の勤務先の連絡先を尋ね、先生が電話をかけてくれたのです。
しかし、職員室で横たわっていた私に、先生が気まずそうな顔で伝えてきた言葉は衝撃的なものでした。
「お父さんね、『会社に連絡されても迷惑だ』って言って電話を切っちゃったの……」
当時の父親なんてそんなものだったのかもしれませんが、我が子が40度近い熱を出していることへの心配よりも、自分の世間体を優先したその断り方に、子どもながらに深いショックを受けました。 百歩譲って会社が厳しかったのだとしても、せめて「母親のパート先にかけ直してくれ」と言うべきだったのではないでしょうか。
進路相談ができる家族は、誰一人いなかった
母親の口癖は「医者になりなさい」でした。 「東大は無理かもしれないけど、お医者さんなら何とかなるでしょう」といった話をよくされました。
学部を選ばずに東大に入るよりも、医学部に入る方がよっぽど偏差値が高いのですが、そこは中卒の母親。その程度の知識しか持ち合わせていなかったのでしょう。 私が中学、高校への進学という人生の岐路に立ち、進路を相談しても、母は「頑張って勉強して医者になりなさい」の一点張りでした。
医者という職業が持つ社会的意義や素晴らしさを説明してくれるわけでもなく、母にとって医者とは、単に「一般人が手っ取り早く金持ちや名声を手に入れるための手段」でしかなかったのだと思います。
一方の父親といえば、「人に自慢できるような職業がええなぁ」と、これまた中身の薄い見栄を口にするだけ。 私の家には、将来の進路について、まともに向き合って相談できる大人は誰一人としていませんでした。







