自分の人生を振り返る 1

雑談
火焔熊
火焔熊

23歳の時に父を亡くし、今年42歳にして唯一の親である母も亡くなりました。2人とも、残された者に対する思いやりは無く身勝手な死に方でした。この親には生前も不要な苦労をたくさんさせられましたが、死んでからも容赦なく苦労させられました。本当にクソみたいな親でクソみたいな人生でした。クソみたいな人生なりに自分の人生を整理するため、一度自分の人生を思い返してみようと思います。

里帰り出産にて熊本県で誕生

 私は1982年に高卒の会社員の父(34歳)と中卒の専業主婦の母(27歳)の下に生を受けた。場所は熊本県菊池郡大津町。実家は阿蘇市(旧阿蘇郡)一の宮町で母の実家も阿蘇郡高森町なのに何故大津だったのかは良くわからない。祖父が大津市の老人ホームにいたからだろうか。とにかく里帰り出産で熊本県大津町で生まれた。その後直ぐに静岡県袋井市という田舎 to 田舎ムーブで静岡県民となり、高校卒業まで袋井市で過ごすことになる。

狭い土壁の借家で生活していた

 袋井の家は古くて狭い平屋の借家だった。土壁だったので触れるとなんかキラキラしたのが肌にくっついた。おまけに計画性のない母親の買ったデカすぎる家具とか人形や荷物がたくさんあって、居住空間を圧迫していた。人が生活できるスペースは殆どなく、4人家族一つの部屋で高校卒業まで寝ていた。田舎なので周りの普通の家庭は基本持ち家か新しめのアパートに住んでいる人ばかりで、借家の人は割と民度低めな感じだった(個人的な印象)。家では親父のいびきがやばい位うるさくて、親父が先に寝たときは眠れなかった。冗談抜きで工事中みたいな音がしていた。

当時住んでいた借家

近所のたかひろ君

 私の一番古い記憶は3歳頃だと思う。当時、近くに住んでいる同じ年齢のたかひろ君と良く遊んでいた。今思えば年内にディズニーランドに行った回数や買ってもらえるおもちゃの数とかでいちいちマウントしてくるウザいやつだったが、当時自分は純心Boyだったので彼をただの裕福な友人だと思っていた。ただ、彼は小学校低学年のうちに親が離婚し父方の実家(袋井市)を離れ母親についていったのでその後の事は全く知らない。たかひろ君がいなくなった後、そこの家の婆さんに挨拶をしても挨拶を返さないようになったので、子どもながらに「そういう性格の悪いところが彼の母親に三行半を突き付けられた原因なんだろうな」と思ったことを憶えている。

幼稚園うめ組事件

 話を少し戻すが、私が幼稚園に入る時に母親から無茶苦茶なミッションを仰せつかったことを思い出した。初登園の日の朝、突然母親から「幼稚園のクラスは『うめ組』が良いからうめ組にしてもらって」という指令を受ける。今の自分であれば「お前は何を言っているんだ?」と切れ気味に返すところであるが、純心Boyだった私は初登園時に素直に母の伝言を幼稚園の先生に伝えた。

結局クラス分けで担任の先生から『ばら組』と伝えられるも母から受けたミッションがあるため、『うめ組』にしてくれと先生に食い下がった。「おかあさんから『うめ組』にしてくれと言われている。お道具箱とかにも全部うめ組と書いてもらってある」という旨を伝えた。しかし現実は非情である。うめ組案は通る事は無く、家に帰された。家で母には『うめ組』案は叶わず、『ばら組』となったことを伝えた。母がため息をつきながら名前欄の『うめ組』に訂正線を引いて『ばら組』と書き直していた。今思い返してみても意味不明なエピソードだ。

遠足お弁当事件

 幼稚園でのお弁当はいつもお気に入りのフラッシュマンのアルミ弁当箱だった。これは母にかなり頼み込んで買ってもらった大切な弁当箱だ。この弁当箱はこの先高校までの長い付き合いになる。ちなみにこの弁当箱は、お気に入りのヒーローがプリントされている以外にも良い事が他にもあった。それは蓋をしても密封されないということだ。汁漏れの原因となるので普通は利点というより欠点だが、我が家にとっては利点となっていた。理由は弁当が熱いままふたを閉めても、冷却後蓋が開かなくなる事が無いこと。密封できるパッキン有タイプの弁当ではこうはいかない。これをやると陰圧で蓋が開かなくなる。

しかし、我が家でもリュックを長時間背負うため弁当の汁漏れのリスクが高い時は例のアルミの弁当箱ではなくパッキンの付いた密閉出来る弁当箱に変更されてしまう。そう、遠足の時だ。

母はそんな時でも必ず熱々のまま弁当の蓋を閉めてしまうのだ。

遠足でたくさん歩いておなかがすいた正午ごろ悲劇は起こる。皆が楽しそうに弁当箱を開ける中、私の弁当箱は蓋が吸い付いて全く開かない。そこで、当時の力の最大値を使って開けようとするも開かない。もう絶望である。しょうがないので担任の先生に開けてとお願いするも開かない。5分以上先生が挌闘した後やっと開いて安堵するも、先生から「冷ましてから弁当の蓋をするようにちゃんとお母さんに言ってね」と苦言を呈される。

帰宅後母親に冷ましてから弁当箱の蓋をするよう伝えるも、それが叶えられる事は無く、遠足ごとにこの弁当箱の蓋が開かないエピソードは繰り返されることになる。

祖父の死

 父方の祖父は4歳の時に亡くなった。その際、葬式のために実家の熊本に帰ったのだが我が家は県外に出ることなど年に1回あるかないかなので、この帰省はとても楽しかったのを憶えている。葬式前の準備時に寺で追いかけっこを妹としていてどこかのおっさん(親戚かもしれないが)に怒られたのも良い思い出だ。祖父を焼骨した際に割りばしで骨を掴もうとしたが、熱すぎて箸を落としてしまって最後までつかめなかった少し残念だった。まぁ、この約20年後に私はこの遺骨の埋葬までさせられるのだけど。

クリスマス

 周りの家ではやれクリスマスだ!やれサンタだ!と浮かれている頃、我が家にはクリスマスにサンタなど来ることは一度たりとも無かった。周りの友人は今日はケーキを食べるだの、クリスマスプレゼントをもらうだの喜ぶ中、自分にはこのイベントが訪れることが無い事を分かっていたのでとても惨めだった。そんな3歳の時のクリスマスイブ。母とスーパーに行くとパンコーナーでクリスマスケーキを山積みで売っていた。勇気を出して母にケーキを指さして「これ…買」と言うも、かき消すように母に「買わん!」と強い言葉で拒絶されたため、こらえ切れず私は泣いてしまった。悲しくてボロボロ涙を流して泣いた。今は無きスーパーつるみで泣いた。母もバツが悪かったのか観念してクリスマスケーキを買ってくれた。泣いて何かを買ってもらったはこれが最初で最後だった。

小学生の時にドラえもんでのび太がクリスマスプレゼントに欲しいものではない百科事典を貰ってがっかりする話があったのを見て、のび太は百科事典を貰えて羨ましいなぁと当時は思った。

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